灼ける青と、フィルター越しに見えるは、徒然。

蜷川実花 うつくしい日々 / 原美術館 ¥1,100

 

原美術館で10日間限定でやっていたので行ってきました。父・蜷川幸雄の死に向き合った際に撮影した作品の企画展。出不精なので、短期間の展覧会は、いつもだったら行きたくてもいつのまにか終わってしまうパターンなのですが、これはなんだか行きたくて一日中うずうずがどうにも収まらなかったので、なんとか閉館駆け込みで行ってきました。あんなに早歩きしたのはいつぶりだろう。

 

今回の展覧会は、作品に限り撮影OKで、何枚も撮ってしまったのですが、(むしろハッシュタグをつけて、SNSでの拡散を推奨していた。) そうすることで、ずっと広範囲の人の中に蜷川幸雄は生き続けるし、たぶん私もこれからちょっと時間があるときにアルバムをスクロールしたりなんかして、この作品の写真に辿り着く度、蜷川幸雄を思い出すのだろうなあ、と思う。

 

桜の写真が数枚展示されていたのですが、とても淡い色で、なんだか泣きそうになってしまった。私が、今年も綺麗だなあ、なんてのんきにお花見をしながら毎年楽しんでいる桜は、誰かにとっては、そうではないこともあって。みんな平等に同じ風景があるのに、観る人の感情によってこんなにも違った光景に見えるものか、と。

 

あまり生のお芝居は見ないのですが、"世界のニナガワ"の作品を一度だけ観たことがあります。その舞台が終わり拍手鳴りやまない中、役者さんに手招きされて舞台上に出てきた蜷川幸雄さんが、なぜか、舞台の内容より強く印象に残ったのです。

そのときの蜷川さんは、恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんでいて。真っ黒のスウェットのようなものを着ていて。(役者さんが舞台上に呼んでいるとき、いやおれはいいよ、ほんとにいいって、みたいなジェスチャーをしていた。2階か3階の端席だったので、舞台袖がよく見えたのです。) TVで観る怒ったり怒鳴ったりしているイメージが強かったからかもしれません。

今回この展覧会の開催を知って、よくわからないけれど、このときの光景をがつんと思い出したのです。

 

知っているけれど、知らない人の死はなんだか、少し不思議で。死に近づいていく光景を見ぬまま、死の姿を見ぬまま、少し遠いところから死を知ることがほとんどで、心情の置き所が定まらない。あの時、はにかんでいた元気な蜷川幸雄の姿は、私の中に強烈に残っているのに、もうここにはいなくて、更新されることがない。うまく説明できないけれど、この写真を観て、死に近づく時間まで、私の中の感情を更新したかったのだと思う。だから、どうしても行きたくて仕方なかったのかもしれない。

 

写真とともに、蜷川実花の言葉もいくつか添えられていたのですが、一番印象に残った言葉を。

父はなんの後悔もない人生を送ったと言ったし、どこを切り取っても幸せな人生だった。 私も父と過ごした日々になんの思い残すこともなかった。 

 

 

うつくしい日々

うつくしい日々