【美術】-

ものすごく怒っている記事を下書きで見つけた。

批判しかしていない。芸術品ではなくこの企画展の展示方法に対してとても怒っている。

自分でも珍しいなあ、と思うので公開してみます。企画展の名前を伏せますが、アジアの現代アートに関する企画展で、結果的に反体制アートを展示するような内容になっていました。

 

最近自分の中での”アートの定義”を考えているのですが、少しヒントになりそうな、そんな感想文。

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こんな悲しくなった企画展は、あっただろうか。

社会主義の知識人がアートに限界を感じた部分は、こういうところだったのだろうか。

ポリティカルポップアートって結局は、ただの幻想か。さみしい。

 

恐らく、写真がすべてOKだったら、もしくは、すべてダメであったら、ここまで悲しくなることもなかったのかもしれない。

でも、今回、2点に限り写真撮影が可能だった。

 

このふたつは、写真に撮られ、SNSで拡散されることを期待されたのだろう。

つまり、この企画展に消耗されてしまったアートで。

最高に皮肉ではないですか。

 

美術館って、体制側の箱で、ポリティカルポップアートから一番離れている場所で。

基本的に写真が禁止され、近付きすぎることも許されず、ルールがありそれに従って鑑賞する場所で。それに反すると、監視員から注意をされ、そういう場所で。

でも、それはいいんです。鑑賞する側にルールがあり、それが大切なことも、わかってる。

 

でも、この企画展は、一部だけ、写真を撮ってもいいというルールが、今回の展示内容にそぐわなかった、と私は思う。

なぜ写真を撮っていいのか。

それは、この企画展を写真を撮ってSNSで宣伝してほしいからなんです。

だから、写真を撮っても、近づきすぎても、監視員はなにもいわない。

だって、宣伝してほしいから。

 

興ざめですよね。

この作品のアーティストは、美術館という場所で消費され、鑑賞されるために、アートを選んだのか。

 

そして、わたしたち純粋な大衆は、何の疑いもなく、このふたつの作品を写真に収め、スイーツと同じような熱量でSNSで公開をする。

でも、それって体制側の思う通りに事が運んでいて。

わたしたちは、いつのまにか支配されてしまっているわけです。美術の鑑賞の仕方を。

 

ほんとうに興ざめですよね。

 

他の企画展で、やられても全然かまわないです。

けれど、こういうポリティカルポップアートでやってほしくなった。

やるのであれば、すべての作品を撮影可能にしてほしかった。

それか、全部だめにしてほしかった。

 

寂しい。アートの限界ってやっぱこういうところなんだ。

って、本当に肌で感じることが出来た。

 

支配されることに疑問を持ち、体制に反するために、製作したアートが

今度は、わたしたちを支配する。そして、ルールを作り出し、それに反したものは、徹底的に排除する。

 

最高にやっていることが、あなたたちが、嫌いで仕方なかった、体制側と何も違わないでないですか。

 

こんなに悲しくなった展覧会は始めてだ。