パンダと、
■ ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション 東京都美術館 / ¥1,600
少し時間があったので、ふらっと東京都美術館へ行ってきました。
上野動物園でパンダが生まれたので
最近、上野中がパンダで盛り上がっていて楽しい。
今回の目玉作品である英一蝶の巨大涅槃図。目玉だと知らずに観たのですが、見入ってしまいました。奇妙な動物が豪快に描かれていてとても見応えがありました。
今回の里帰りに合わせて、修復作業をしたらしいのですが、その映像も観ることができました。
一番好きだった絵は、モネの、くぼ地のヒナゲシ畑、シヴェルニー近郊 (Poppy Field in a Hollow near Givern)。赤い色と構図が好きです。
土曜日の夕方に行ったのですが、ここ最近の企画展に比べたら空いていた方で、久々にゆっくり観ることができました。
ナビ派。
ナビ派って知らなかったのですけれど、とても面白かった。
比較的お金に余裕のある若者たちが、学生時代に仲良しグループでいろいろなことを実験して、なんかグループにして名前つけたいね…そうだナビってよぼうぜ!って青春を謳歌し。
その後、大人になり、それぞれ自分のスタイルを確立していくのだけれど、
あいつ今こういう感じで頑張ってるのかあ~みたいな感じで
それぞれ尊敬し合いながら、時々会えば昔に戻って思い出話に話を咲かせる。
みたいな関係性。とてもうらやましい。楽しそうだなあ。
思想や芸術方法に共感して結びついた実験団体ではないので、時を経て自分の表現したいことが変わっても、特に仲たがいすることもない。いいなあ、楽しそうだなあ。
作品自体もとても好みでした。印象派よりも色使いが濃くて、イラストのようだった。
日本の浮世絵に影響されたと思われるキャンバスの大きさや、美人画のような女性の絵。
かぼちゃ
ロンドンのテートモダンで観た映像作品がもう一度見たくて、でも日本ではなかなかそういう機会がなくて。
だから、今回この展覧会で観ることができてよかった。
じっぐらとう。
■ ブリューゲル バベル塔展 / 東京都美術館 ¥1,600
ブリューゲルももちろんですが、同時に何枚か展示されていたヒエロニムスボスの絵が大好きなのです。今回はこれがお目当て。
どれくらい大好きかというと、ボスの出身地デンボスにあるヒエロニムスボスアートセンターに行くために、わざわざオランダに行ってしまったくらい好きです。
アートセンターといっても、教会で、そこにボスの全作品(すべて贋作)があり、ボスが描いたおもしろい生き物のオブジェが天井から吊るされていたりと、ゆるい感じなのですが。
そんな雰囲気の場所だったからか、デンボスで一番印象に残ったことは、そのアートセンターではなく、電車の駅から降りてセンターまで歩いて向かう際、突然どしゃぶりになってしまったので、傘を買うために地元のスーパーにかけこんだことで。すぐ使いたかったのでタグを取ってほしかったのですが、レジにはさみがないということで、ハサミを求めてスーパーの中をうろうろしたのが良い思い出です。精肉エリアで無事発見し、白衣を着てマスクをしたおじさまがちょきんと切ってくれたのでした。
雨でびしょびしょに濡れながらハサミを求めて徘徊している日本人を哀れに思ったに違いない…。親切にしてくれる、デンボスの人、やさしい。
話がそれた。
ボスの絵は、不気味だけれど魅力的な生物がリアリズムの中にすとんと書かれているところが、好きな理由です。今風に言うと、きもかわいいキャラクターっていうところでしょうか。
絵がとてつもなく上手な人が、わざとわけわかんないもの描くの、いいよね。マグリットとか。
もちろん展覧会の目玉作品、ブリューゲルのバベルの塔は傑作でした。あんなに細かく描いているなんて、ルーペでじっくり見たかった。実際は、誘導されながら流れるように観終わったので、もう回転すしの寿司になった気分で、観ました。バベルの塔。
聖書の物語を直接的に描く作品って、啓蒙的意味合いが強いと思っていたのだけれど、ブリューゲルのバベルの塔はそうではなく、ブリューゲルお得意の庶民の暮らしがそこにはあって。人間たちが、目の前にあることを真面目に着々とこなし、そこには人の生活がある。そこが描かれいて面白かった。
旧約聖書を読んだ際は、欲深い人間たちがそれが神の逆鱗に触れた。みたいな二元的お話な印象だったのですが。
なんで、神様の怒りに触れ、言葉をバラバラにされなくてはならなかったんだろう、ただこの人たちは、別に神様に背こうと生きていたわけでなく、ただ必死に毎日を生活していただけだったのに、って自分の中で聖書を再発見することができました。
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灼ける青と、フィルター越しに見えるは、徒然。
原美術館で10日間限定でやっていたので行ってきました。父・蜷川幸雄の死に向き合った際に撮影した作品の企画展。出不精なので、短期間の展覧会は、いつもだったら行きたくてもいつのまにか終わってしまうパターンなのですが、これはなんだか行きたくて一日中うずうずがどうにも収まらなかったので、なんとか閉館駆け込みで行ってきました。あんなに早歩きしたのはいつぶりだろう。
今回の展覧会は、作品に限り撮影OKで、何枚も撮ってしまったのですが、(むしろハッシュタグをつけて、SNSでの拡散を推奨していた。) そうすることで、ずっと広範囲の人の中に蜷川幸雄は生き続けるし、たぶん私もこれからちょっと時間があるときにアルバムをスクロールしたりなんかして、この作品の写真に辿り着く度、蜷川幸雄を思い出すのだろうなあ、と思う。
桜の写真が数枚展示されていたのですが、とても淡い色で、なんだか泣きそうになってしまった。私が、今年も綺麗だなあ、なんてのんきにお花見をしながら毎年楽しんでいる桜は、誰かにとっては、そうではないこともあって。みんな平等に同じ風景があるのに、観る人の感情によってこんなにも違った光景に見えるものか、と。
あまり生のお芝居は見ないのですが、"世界のニナガワ"の作品を一度だけ観たことがあります。その舞台が終わり拍手鳴りやまない中、役者さんに手招きされて舞台上に出てきた蜷川幸雄さんが、なぜか、舞台の内容より強く印象に残ったのです。
そのときの蜷川さんは、恥ずかしそうに、でも嬉しそうにはにかんでいて。真っ黒のスウェットのようなものを着ていて。(役者さんが舞台上に呼んでいるとき、いやおれはいいよ、ほんとにいいって、みたいなジェスチャーをしていた。2階か3階の端席だったので、舞台袖がよく見えたのです。) TVで観る怒ったり怒鳴ったりしているイメージが強かったからかもしれません。
今回この展覧会の開催を知って、よくわからないけれど、このときの光景をがつんと思い出したのです。
知っているけれど、知らない人の死はなんだか、少し不思議で。死に近づいていく光景を見ぬまま、死の姿を見ぬまま、少し遠いところから死を知ることがほとんどで、心情の置き所が定まらない。あの時、はにかんでいた元気な蜷川幸雄の姿は、私の中に強烈に残っているのに、もうここにはいなくて、更新されることがない。うまく説明できないけれど、この写真を観て、死に近づく時間まで、私の中の感情を更新したかったのだと思う。だから、どうしても行きたくて仕方なかったのかもしれない。
写真とともに、蜷川実花の言葉もいくつか添えられていたのですが、一番印象に残った言葉を。
父はなんの後悔もない人生を送ったと言ったし、どこを切り取っても幸せな人生だった。 私も父と過ごした日々になんの思い残すこともなかった。