【音楽】芸術を消費するということ。
■ どろん/ King Gnu (2020)
どろんのMVを観ました。
このバンドは、ほんとうに面白いなあ。
情熱大陸も見たけれど、芸術家二人と職人二人で出来ている音楽集団だなあ、と思う。
せきさんとあらいさんは、職人気質というか、寡黙に努力し続けて、男は弱音を吐かない!みたいなタイプで。
一方のつねたさんといぐちさんは、今の現状に対して葛藤を吐露している場面があって芸術家タイプだなあ、って思って。まあ、芸大出身だから芸術家タイプというか芸術家なんだろうなあ。
構築するリズム隊が職人で、フロントマンが芸術家で、それはもう人を惹きつけてしまう音楽になるよなあって。
MVのことに戻ると、わたしは、頭があまり柔らかくないので、考察は苦手なのだけれど
最後の赤字POPの演出で鳥肌が立ってしまった。こんなわかりやすいことする必要ある???って。
ここまである種のアンチテーゼを持ってPOPに向き合っているバンドが、実際POP側にいる現状。
まるでPOPの内側からじわりじわりと浸食しているようで、これからどこに向かっていくのだろうって、わくわくしてしまう。
彼らに熱狂する者も、拒否反応を起こす者も、その群れの蜜を吸おうと集まってきた者もすべてまるっと、彼らの思惑通りのようで、たまらないのです。
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わたしたち大衆が、他人であるアーティストや作品に対して、意見や感想を抱くということ自体が、大なり小なりそれを消費していることになるし、それがポップスであることの宿命だとも思う。
音楽作品としての大衆性は狙ってつねたさんが産み出しているけれど、それ以外の大衆性の大部分は、いぐちさんが背負っていると思っていて。 彼は吸引力があるというか人間的にとてもパワーがあるなあ、と。表現者として面白いなって。
まあ、つねたさんがいぐちさんの大衆性を期待して、メンバーにしたのかもしれないし、そうしたらやっぱりすべてはつねたさんの策略通りなのだろうけれど。
そして、このバンドは、日本の音楽シーンで売れることをコンセンプトに掲げた集団で。
そういった大衆と向き合う覚悟みたいなものを持っている集団が、実際に今ものすごいスピードで消費されていること。そして、彼らがそのことに対し葛藤を持ち始めていること。この一連の流れが、コンセンプト通りに進んでいるので、まるでまるっとパフォーマンスアートのようで。
しかも、わたしたちが彼らの作品や彼ら自身に、あれこれ言うこと自体が、もうKing Gnuというコンセプチュアルアートの中に組み込まれてしまっている感覚があって、それが最高に皮肉でぞくぞくするのです。
彼らを好きであろうが嫌いであろうが、何か意見を持ってしまった時点で、何かしら消費していることに変わりはないし、彼らのプロジェクトの一部として機能してしまう。
なんなら彼らを利用して利益を得ている媒体さえも巻き込んで、ポップとは何か、という問題提起をしてしまっているような。
音楽を、そしてそれを演奏している人を消費するということはどういうことか。日本における音楽の聴き方というかそういうものを考えさせられる。
ほんとうにポップって何なんだろう。
もしかしたら、当初思っていた以上に群れの規模が広がってしまっているかもしれない。
もしかしたら、いくら売れることを覚悟していたとしても、そこで生まれる摩擦みたいなものは、想像以上だったかもしれない。
今後、彼ら自身がKing Gnuというコンセプトに呑まれてしまうかもしれないし、たくさん集めた大群をコントロール出来ず制御不能になってしまうかもしれない。
彼らは、この群れをどこに向かわせるのだろう。そして、最後までついて行きたくなるような、そんなキングでいてくれるのだろうか。
彼らのバンドとしての着地点はどこになるのか、どこに落とすのか、ただのしがない彼らの一消費者として、楽しみたいなあ、と思う。